2009年01月11日

がーまる ちょば

本日朝、NHK「おはよう日本」に登場したモヒカン頭の日本人二人。

パントマイムをやりだしたが、グッグッと惹きつけられました。

最初はソロで活動していて、10年前にコンビを組んで、世界を舞台に転戦してきたようです。

ネットで調べたら、カルビーのCMもやっているし、ファンもかなり多いのです。

なんか、これからブレークしてきそうな気配です。

全国ツアーをやるそうなので、今からちょっとマークしておきます。

コンビ名の“がーまる ちょば”はどっかの言葉で「こんにちは」という意味らしい。

従来のパントマイムの既成概念をひっくり返すイノベーターになるかもしれない。

どこがどうなのかは言葉では表現不可能。先ずは、そのパフォーマンスを見るしかありません。

このコンビを見て思ったこと

 ローマは1日にしてならず

彼らには10年以上の芸の積み重ねや努力があったはず。

 それが花開く

人間辛抱が必要。あきらめずにガンバル。→自分に言い聞かせました。

投稿者 messiah : 09:44 | コメント (0) | トラックバック

2005年05月15日

日本が一番元気だった時代に”世紀の大発明”をした男

[写真加工]
KARAOKE -人生紙一重-
日本で生まれ世界でも親しまれている「カラオケ」。

”KARAOKE”は、今や国境を越えて万国共通の言葉にまで...。

その「カラオケ」の発明者で、1999年のタイム誌で「今世紀、もっとも影響のあったアジアの20人」に選ばれた井上大佑氏の半生を描いた『KARAOKE 人生紙一重』が東京、大阪などの映画館で5/14から上映されています。

井上氏は昨年、大真面目で奇妙キテレツな研究を賞賛したイグ・ノーベル賞も受賞しています。受賞理由は、「カラオケ」を発明して人々が互いに寛容になる新しい手段を提供した功績による、とのこと。

映画は1960年代後半の大阪が舞台。お好み焼き屋の息子・井上大佑(押尾学)は、楽譜も読めないのに音楽で身を立てることを決心し、父のコネでやっと入った証券会社を勝手に辞めてしまう。そんな中、大佑は生粋のお嬢様・洋子(吉岡美穂)に一目惚れするが、見事失恋。傷心のまま音楽の武者修行に出発する。しかし結局、望む仕事にはありつけず3年が経ち、手ブラで故郷に戻ってくることに。どうにか人生の起死回生をと目論んだ大佑は、「8ジューク」なる新製品を思いつくのだが・・・。
by KARAOKE-人生紙一重- - goo 映画
※ この映画の予告編はKARAOKE -人生紙一重-で見れます。

実際のところは、井上氏が神戸のクラブでバンドマンをしていた時、常連で歌の下手な会社・社長に社員旅行での伴奏を頼まれたのだが、一緒に同行できなくなり、そこで社長の音程に合わせた伴奏の録音テープを作ることを思いついた。

これがヒントになってその後、録音テープとジュークボックス、マイクを組み合わせた「カラオケ」の発明に至ります。

但し、「カラオケ」の命名者は井上氏ではありません。「カラオケ」は、「カラ(空)」+「オーケストラ」の造語。空っぽ、つまり歌のない伴奏という意味で1976年、クラリオンが業務用装置に命名したのが由来のようです。

筆者が時々コンサートを聞きに行く、ヒューマンライフギャラリー Scene(シーン)で、近隣の人たちを集い、音響設備の整ったステージを開放してカラオケ大会を開催しました。

すると、大勢の人が参加して大変な賑わい。「また開催してほしい」、「また頼む」・・・というリクエストが殺到して主催者側は嬉しい悲鳴を上げているとのこと。

そんな状況を見ると...シルバー、シニア、ミドル、ヤング、ジュニア、キッズにいたるまで”老若男女”を超越して人気のある「カラオケ」は、世紀の大発明と言っても、決して過言ではありません。

話は戻りますが、「カラオケ」発明者の井上氏は現在、兵庫県西宮市で無公害洗浄液製造機の会社を経営されています。およそ「カラオケ」とは無縁とも思える道に...。

そして、「歌う方はあまり得意ではないし最近は”カラオケ”で歌っていない」とのこと。

それも、人生。...いろいろですねぇ。

投稿者 messiah : 10:45 | コメント (4) | トラックバック

2005年05月08日

「理」 と 「情」 ”伝説のプレーヤー”が内在する正反対

[Photo] テレビステーション・ニュース
筆者が20歳代後半の頃、落合博満氏(現・中日ドラゴンズ監督)はロッテ・オリオンズの4番打者として超人的な活躍をしていました。

ロッテ・オリオンズで前人未到の3度目の三冠王を達成した1986年、新聞の全面広告に阪神タイガースの救世主バース氏と二人で並んでバットを肩にかけた写真が大きく掲載されたのを憶えています。

「今年もまたセ・パ両リーグ 三冠王」という見出しだったかな。

顔色一つ変えずに思ったことをストレートにズバッと言う。

「三冠王を獲る」といって本当に獲ってしまう完璧な有言実行型。

意表をつく発言の数々、上を上とも思わない不敵な態度。

そんなところが当時の(若い)筆者の目から見ると新鮮で、そして何よりも刺激的でした。

スポーツ新聞に「三冠王・落合トレードか?」の見出しが大きくでたのはシーズン終了直後の事。

成績不振の責任を追及されて監督を解任された稲尾和久氏をかばう発言をした事から球団との間に大きな溝が出来たのです。その後、「稲尾監督を解任するならオレも辞める」と公言。

その当時の落合氏と稲尾氏との人間関係について筆者はよく知りませんが、シーズン中にこんなことがありました。

シーズン終了直前、首位打者部門で落合選手を激しく追い上げる阪急ブレーブスのブーマー選手に対して、稲尾監督は落合選手に三冠王を獲らせるために終盤の数試合を休ませます。
(※ ブーマー選手は1984年の三冠王)

好不調で数字が上下する打率は落合選手が三冠王を獲るための最重課題。「四タコ(4打数ノーヒット)しても大丈夫になるまで落合は試合に出さない」と稲尾監督は公言して実行したのでした。(ブーマーは卑怯だ、と怒った)

そんな温情派の稲尾氏に落合選手が男気を感じるものがあったように思います。

卓越した野球理論を武器に『理』でしか動かない男かと思うと、相手次第で簡単に『情』で動く、そんな不思議な二面性を持つ男。

三冠王を取った落合氏はその後も活躍して1998年に引退するまで、記録と記憶の両方に残る”伝説のプレーヤー”として名を残すことになります。

そして、昨年久しぶりにユニフォームを着た落合氏は、(説明するまでもないが)監督として1年目のセ・リーグ優勝を有言実行してしまいます。

1年目は誰も解雇せずに現有戦力で戦う。それでも十分優勝する力はある、と見抜いた洞察力はさすがです。

メジャーリーグにすらいない3度の三冠王を獲得したプレーヤーが、監督という立場になると、投手を要とした守りの野球に徹するという現実主義。

これは彼の『理』の部分でしょう。

そして、1年目に1軍と2軍の全選手に平等にチャンスを与えたのは彼の『情』の部分でしょう。

「落合博満」の考えていること、行動していることは、言葉数は少ないが実に『理』にかなったものです。

しかし、彼の『理』を動かすエンジンとなっているのは、それとは一見正反対に見える、彼の野球に対する『情』かも知れません。

投稿者 messiah : 08:40 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月10日

発想=不可解、行動=明快 そんな男の学習意欲

筆者のプロフィールをご覧ください。そこに次のような私的迷文が記載されています。

自分の感性に素直に従って道を進む。これは無計画性と紙一重でもあります。しかし、計画を立てて進むだけが人生ではありません。答のない試験、ゴールのない旅、それが人生。時としては、出たところで勝負するのも"有り"ではないでしょうか。

元プロレスラーにして参議院議員の大仁田厚氏はそんな私の考えを地で行く男です。乱暴だけれども愛嬌がある。何を考えているか分からないが何でも手当たり次第に行動に移していく。あまり見かけない型の人間ですが、外見からは想像できない学習意欲の高い人なのです。

大仁田厚氏のHP大仁田 厚 オフィシャルサイトに、彼が6年前の41歳の時に通った定時制高校の高校生活のトピックスが描かれています。はっきり言って、結構くだらないがかなり面白い。(こちらから)

大仁田氏は中学校を卒業して16歳でプロレス界に入門しています。それから25年も経った41歳という年齢で何故、彼は高校に入ろうと決意したのか?

ある地方で、高校生を相手にした講演をした。真剣に聞いているヤツ、聞いていないヤツを見ながら、ふと感じた。「今の若者は一体、何を考えているんだろう」と。世間では少年、とりわけ17歳による凶悪犯罪が横行し、あちこちで、「キレる若者」の存在がクローズアップされていた。17歳って、本当にそんなヤツらばっかりなのか?俺の頭の中に、直接彼らとふれあってみたいという気持ちがわき起こった。直接彼らと向き合い、同じ目線で会話することで、何か見えてくるかも知れない――。思えばオレ自身、高校へ通っていない。高校生活がどんなものなのか知らないのだ。そんなコンプレックスも相まって、オレは高校へ行くことを決心したのだ。

それにしても出たとこ勝負ですね、この人。自分の感性を行動の拠り所としている直感勝負の意気の良さと、計画性に乏しい危なっかしさが同居しています。しかし、どこかに現代人が失っている何か、...しいて言えば素直さのようなものを感じさせてくれます。

そして、大学に行く動機について次のように語っています。

高校に通っている間はとても長く感じたが、終わってみるとあっという間だった。勉強のおもしろさもわかってきたし、もっともっと若いヤツらとふれあいたいと思った。そんなことから、大学へ行ってみようと決心したのだ。

おっと、これもまた出たとこ勝負ですね。

ところが、その出たとこ勝負男は芸能活動、プロレス活動、議員活動をこなしながらとうとう3月26日に明治大学政経学部(二部)を卒業します。出たとこ勝負でも何でもいいけれど最後まで貫徹する信念というか執念というか......参りました。

その大仁田氏、3月9日の参議院予算委員会で質問に立ち「これまでは履歴書に中学卒業としか書けなかった男ですがね、明治大学政経学部卒業が決まりました」と公私混同も含めて述べています。委員会室では「ファイヤー!」という掛け声も飛んだそうで、これからも型にはまらない天然記念物として多いに活躍してほしいものです。

投稿者 messiah : 08:40 | コメント (0) | トラックバック

2005年03月02日

発想力 + 情熱 = 非常識

非常識の中に難問を解決する手法が隠されている」と断言します。この人は、レールの上でも道路の上でも走れる新しい乗り物を開発して輸送事業として確立する、という非常識を実現した凄い人なのです。へぇ...

柿沼博彦氏
(現在、JR北海道の専務)
[写真]asahi.com : MYTOWN : 北海道より

(憧れ)
子供の頃に水陸両用車に憧れました。水の中と陸の上...この全く正反対の環境を克服して突っ走る車は鉄腕アトムやマッハGO!GO!GO!の漫画の世界の空想の産物でしかありませんでした。

(経緯)
その水陸両用車的発想に近いのが、レール上でも道路上でも走れる車。1930年代からイギリス、ドイツの鉄道や日本の旧陸軍が相次いで試験車両を開発したが、車輪がガタついたり、モードチェンジがうまく行かなかったりでいずれも失敗しています。

(出発)
柿沼氏がレールと道路の両用車(名付けてDMV:デュアル・モード・ビークル)の開発構想を打ち出した時、周囲はみんな「レールはツルツル。タイヤが空回りするだけ」と冷ややかでした。

(発想)
しかし、「やってみなければ分からない」と言い続けていたある日、通勤途中に幼稚園の送迎バスを見て「この大きさならレールにすっぽり収まる」とDMVの本体にすることを思いついたのです。

(実行)
DMVは、レール上では前のタイヤだけ鉄の車輪を使い(切替時間10秒程)、後のタイヤはレール上に残します。この時に除雪車の技術を応用してタイヤをレールに密着させることに成功。雪対策なども解決して昨年夏には試作車が完成し、その後ローカル線で長期走行試験が行われています。本格運転は2~3年後です。

 
DMVの外観(前は鉄の車輪、後はゴムタイヤ)        レール上を走るDMV(運転席は普通の自動車と同じ)

[写真]からしら萬朝報こちらより

(教訓)
柿沼氏は「鉄道から道路へ、という発想が失敗を生んできた」と言います。車をレールの上でも走れるように改造する「発想の転換」が失敗の歴史に終止符を打ったのです。

(目的)
JR北海道は、赤字ローカル線を廃止せず維持する「切り札」としてこのDMVの開発に本腰を入れています。最終的にコストが大幅に削減できるほか、鉄道とバスの双方の利点を生かし駅から商業施設の玄関に直接乗り入れたり、高齢者の遠距離通院などのきめ細かい対応を可能にしたいとのことです。

これが実現すれば、お荷物だった赤字ローカル線が高齢者をターゲットにした新規ビジネスを支えるインフラになる可能性もあります。それは...凄い!

(余談)
DMVだけではありません。柿沼氏は「電力回生システム」という、不可能と言われた夢のシステムも実現しています。

電車の車体に取り付けたモーターを発電機として回し、架線に電力を送り返して別の電車が活用する。自動車も船も飛行機もまねのできない省エネルギーシステムです。

しかし、このシステムは非常に周波数の高い高調波電流が発生し、架線を伝って電気設備に障害を与える危険が大きいため、誰もが夢のシステムとしてあきらめていました。

ところが柿沼氏は、1995年この高調波の影響を抑えることに成功し、消費電力の15~20%を戻せる世界初の電力回生システム搭載電車を翌1996年に誕生させます。

「これから、このシステムが主流になる」という柿沼氏の予言通り、電力回生システムは東海道新幹線の700系のぞみ型車両や長野新幹線に導入され、またオーストラリアの大地を走る電車にも採用されています。

(おまけ)
発想力 + 情熱 = 非常識(旧態依然とした常識を打破した非常識)
凄い人がいるものです。JR北海道はラッキーです。しかし、もっとラッキーなのは北海道でDMVに乗れる人たちでしょう。

投稿者 messiah : 08:44 | コメント (0) | トラックバック

2005年02月03日

プロ野球の新球団構想はアイディアマンの夢か

近畿産業信用組合という(私にはあまり馴染みのない)金融機関が、大阪を基盤とするプロ野球の新球団構想をおおやけにしました。タクシー業界の風雲爺(1928年のお生まれ)ことMKタクシー(エムケイ株式会社)会長の青木定雄氏が音頭をとって、早ければ来シーズンからの参入を目指すとのこと。出来れば四国リーグと連携して偶数(2,4,6,・・・)の球団が誕生すれば試合日程が組み易いので実現の可能性も高まるのでは、と思います。老いて尚盛ん?<(_ _)>な青木氏ですが、この方、現在のインターネット商法と同じ設計思想の商売をもう30年以上前に思いついていたようです。

1970年代、タクシー業界では同じ地域の全タクシー会社が横並びに同調して2年ごとに料金の値上げを行っていました。その結果、利用者のタクシー離れが起きて値上げしても収入増加につながらなかった。これに気づいた青木氏は、1981年の一斉値上げの動きに反対し「乗客の理解が得られない安易な値上げは行わない」と業界の動きに待ったをかけたのです。そして1982年、大阪陸運局に対して運賃値下げ申請を行い、これが却下されると運輸省(現・国土交通省)を相手取って大阪地方裁判所に提訴したのです。その後1989年、運輸省側が和解を申し入れ、青木氏はこれを受け入れた、という話は有名です。

また、次のような挨拶を乗務員が行わなければ運賃はもらわないという「MK運賃4つの挨拶運動」を実行しています。
 (1)「MKでございます」「有り難うございます」と挨拶をする。
 (2)行き先は「〇〇までですね」と確認の復唱をする。
 (3)「本日は〇〇がお供いたします」と乗務員名を明らかにする。
 (4)「有り難うございました。お忘れ物はございませんか?」とお礼を言う。

さらに次のような顧客サービスを次々と実施に移しています。
 ・ 身体障害者優先乗車
 ・ 救急タクシー
 ・ 英会話ドライバー
 ・ GPS無線自動配車システム
 ・ メッセンジャーサービス
 ・ 割引回数券の発売
 ・ 代行運転サービス

私が注目したのは、1973年に導入した「動く情報デパート」です。
MKタクシーの車内には大きく「売りたいもの、買いたいものがある方は何でもお申しつけください」と表示がしてある。それを見たお客さんが乗務員に注文すれば、「後でご連絡しますので、お名刺を1枚いただけますか」と言って名刺を受け取り、それを会社の商事部に渡す。商事部は予めエントリーされている売主買主のデータベースから適切な売り手・買い手を探して商談に入る。商談が成立すればマージンの数十%(当時は60%だった)がその乗務員に支給されるというシステムです。

これは現在のインターネット商法の主力となっている「オークション」や「アフィリエイト(※)」と同じ設計思想です。それが30年以上前に考えられ実行されていたことに驚きを感じました。アイディアに古いとか新しいとかはなくて、基本的に優れた設計になっていればそれを時代に合わせて実現していけばいいようです。(言うは易し...ですが)

そう言えば今回の新球団構想も、企業から出資を募って出資企業がそれぞれ各選手を雇用するという誰もが考えもしない発想が盛り込まれているのも青木氏ならではでしょう。
さて、そんな卓越した発想力と権力をものともしない青木氏が「関西が元気になるようにプロ野球球団を呼び戻したい」と掲げた男のロマンと、日本プロ野球機構(NPB)という保守の牙城との戦いが今始まったということで、今後も注目の話題です。

※ アフィリエイト
  自分のサイトに企業サイトへのリンクを張り、閲覧者が自分のサイトを経由して商品を購入したりすると、企業サイトから
  (仲介業者経由で)報酬が支払われるというシステム

参考サイト:NV-CLUB ONLINEこちら

投稿者 messiah : 08:11 | コメント (0) | トラックバック