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2005年10月21日

外来の”ことば”は日本語に置き換えてみる

母校から郵送されてきた「学園だより」をパラパラと斜め読みしていました。

そこに、文学部教授の「模範的な日本語もかつては若者ことばから生まれた!?」と題するコラムがあり、少し勉強をさせられました。

「キモい」、「ハズい」、「ムズい」など、年配の人には理解しにくい”若者ことば”があちらこちらで飛び交い、日本語崩壊を予感させる昨今です。

ところが同教授によると、「”ことば”は昔から変化を続けてきている。古い文献を探せば、江戸時代初期に、若者の”ことば”の乱れを嘆いて書かれた本がある。決して今だけが特別ではない」というのです。

いつの世でも、「今時の若い者は...」と嘆く歴史は繰り返すのでしょうか。

「そもそも”ことば”の変化はほとんどの場合、若者から起こる」

若者は固執がなく、気持ちのまま表現する柔軟性を持っているからだと言うのです。

例えば、自転車をチャリンコと言い換えて、それが全国的に普及しました。

チャリンコからは、原チャリ(原付自転車)やママチャリという派生語まで幅広く浸透した事実があります。

チャリンコという”ことば”には、自転車にはない、気軽さと親しみのこもった生命力があるからだと言うのです。

チャリンコとは決して呼ばない、一途な方もおられるでしょうが、筆者は子供に言う時は「チャンリコ」、そうでない時は「自転車」と使分けていますね。(優柔不断ですから)

そして、教授は続けます。

「まるで水が高いところから低いところに流れるように、絶えず”ことば”は変化していく。古き良き日本語を懐かしみ、現代の”若者ことば”を嘆く向きも当然のことではあるが、こうした変化は”ことば”が毎日使われるものだからこそ。”ことば”の本質的特徴なのである。変化しない”ことば”は生命を失った死んだ言語なのかも知れない」

しかし、注意することが1つあるそうです。

最近の日本では、外来の”ことば”を安直に使ってしまう傾向があります。

明治の開国時には、様々な外来の考え方が輸入されたが、日本の識者たちは腐心してそれを日本語に置き換えて定着させてきた。(例えば、Societyを社会と表現した)

日本語で置き換えられない概念は、本当の意味で日本の文化に根付きにくいのではないか、と締めくくっておられました。

確かに、現在の日本語は横文字(カタカナ語)のオンパレードです。

中には意味も知らずに使っている”ことば”も少なくないように思います。(IT用語とか)

外来の”ことば”は、日本語に変換できるか、日本の文化と融合できるか考えてみる事が必要ですね。

投稿者 messiah : 2005年10月21日 08:33

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