« ミルクチョコレートは脳を活性化する? | HOME | 「ニワトリと卵」 どっちが先かに結論? »

2006年05月28日

「知を管理する神」の存在は正か邪か?

インターネットが広まり始めた10年ほど前は、ネットで調べものをする時に使う検索ソフト(サイト)と言えば、何と言ってもYahoo!でした。

それに追随してgoo、Infoseek、Lycosなどの検索ソフト(サイト)が市場の覇権を競っていました。

今から8年前の1998年、米スタンフォード大学の2人の学生がベンチャー企業「グーグル」を立ち上げます。

独自のユニークな発想に基いたインターネット検索エンジン(Google)をテコに、グーグルはわずか7年余りで、先発の検索ソフトにことごとく追いつき、追い越して行きました。

今や米ハイテク業界では、首位のマイクロソフトに次ぐ堂々の2位につけて、トップを窺うまでに力をつけています。

グーグルには他の追随を許さない武器がありました。

「検索が群を抜いて速く正確」、「情報の価値の付け方が優れていた」の2点です。

検索結果表示の優先順位を決める方法が「皆がリンクするページは良い」という考え方を基本にしています。

学術論文がどれだけ引用されたかで評価される点に注目し、これをネット上の文書に当てはめたのです。

アメリカには、「皆が使うものは良いもの」という合理主義的発想があります。

“優れたもの”とは、競争を勝ち抜いて最後に市場に残ったものである、という市場原理に基いたものです。

そして、ネット文明が生み出した市場原理に基く“優れたもの”があります。「集合知」です。

グーグルの検索エンジンは世界中の知の集まりを現出できるという見方から、「世界の知を管理する神」とまで言われようになりました。

しかし...

グーグルは巨大になりました。これからもさらに巨大になっていくでしょう。

すると、グーグルが巨大になることで及ぼす様々な影響に懸念を持つユーザーが現れ出しました。(グーグルの将来に懸念を抱くのはマイクロソフトだけではありません)

例えば、国立情報学研究所の助手、大向氏はこう言います。

「論文であれば、学会で優劣が問われるが、ネット社会では玉石混交の無数のページが無造作に散らばり、価値判断は容易でない。また、グーグルは広告媒体でもあるため、意図的に自分のページが真っ先に出るよう操作する専門企業も多い。それによって、インターネット利用者に自社のページを開かせることが出来る」

同研究所の高野教授はこう言います。

「旅に例えれば、グーグルは最寄りの主要な駅を案内してくれ、確かに便利だ。駅から旅を始める方が見知らぬバスに乗るより効率は良い。でも、本当はどこか心が落ち着ける所に行きたいと家を出たのに、目的地を知らなければ、見たくもない駅の景色や広告を見せられ、とんでもない所にはまり込むこともある」

「グーグルによって私たちの世界認識の質が高まるとは思えない」

「人間社会は現象を観察するのに記者を、学問的フロンティアを探らせるには学者をと、いわばセンサーを現場に派遣してきた。それを基に世界を認識し、次世代に伝えてきた。そういう構造がすべて平板化し、素人が持ってきた物を素人が論評し素人が見るという構図をグーグルが加速させていると思う。1人の学者がやるより、100万人が考えた方が進歩するかと言うとそうじゃない。少数の人が30年も40年も辛気臭いことやり続けて、ほんの少し進歩するものだと思う」

こうしたグーグル脅威論は、本場米国でも盛んです。

集合知の本山のようなグーグルの、その神格化を懸念するのは、集合知とは別の知(...しいて言えば叡智のようなもの)が働いている気がします。

q.f. MSN-Mainichi INTERACTIVE

投稿者 messiah : 2006年05月28日 07:10

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://go1by1.com/mt/cgi-bin/mt-tb.cgi/611

コメント

コメントしてください




保存しますか?


▲TOP   ■HOME